モデルコース

中山道 宿場町をめぐる

日程
1日
エリア
湖南・湖東・湖北

旧中山道の宿場町として栄えたまちなみなどを訪ねる

1
名神栗東IC
6km
  • 10分

中山道は、徳川幕府が制定した五街道の一つで、江戸板橋宿を第一宿として、武蔵・上野・信濃・美濃の各国を経て近江国守山宿まで六十七宿が定められましたが、守山は、東下りの第一番目の宿として「京発ち守山泊まり」で旅人に知れわたっていました。
 宿内の街並みは、11町53間(約1300m)あり、人口は、約1,700人ほどありました。
 江戸時代から続く街道筋の町屋を利用して、中山道街道文化交流館もあり、街道や宿場の情報を発信し、さまざまな人々との交流の場として利用されています。

15km
  • 20分

この地は、武佐宿を起点に伊勢に向かう八風街道(八日市・永源寺を通り八風峠を越え伊勢へとつながる街道で海産物、紙、布等の物資が行き交ったとされています。現在の国道421号線がほぼ踏襲)や八幡町内へ分岐する交通の要で長さは約1kmに及びます。
 江戸時代に入って宿次・伝馬の法が一新され、武佐宿駅は大駅となり、宿村大概帳によれば、宿高八百九十余石、町並八町二十四間、本陣一、脇本陣一、問屋二、高札二、旅籠二十三、人足五十人、馬五十頭(最も賑わったときは百五十頭)、家数百八十三、人口五百三十七人と記されています。江戸時代の最も盛んな頃は三千人余の人の往来があり、近江商人もさかんに行き来したと思われます。その当時の風景は、安藤広重によって木曽街道六十九次にも描かれています。
 また、かつては武佐升(近江升とも言われる八合升。秀吉が京升を採用したため薄れた。)や武佐墨(平安時代後期には紀伊国の藤代墨と並び名産だった)などの特産もあったと伝えられています。

※中山道はかつて中仙道とも記されましたが、幕府は正徳6年(1716年)に中山道と改めました。

11km
  • 15分

中山道65番目の宿場。八幡神社・宝満寺のほか、問屋跡・一里塚跡の石碑などから往時を偲ぶことができます。「愛知川宿まちかど博物館」の店舗を頼りに散策してみませんか。(写真:藤沢和美氏撮影)

8km
  • 12分

中山道の六十五番の宿であり、古くから湖東地方の中心として栄えてきました。今でも本陣跡や旧家が点在し、その面影を伝えています。

7.5km
  • 15分

鳥居本は、江戸から数えて中山道(なかせんどう)六十七次の第六十三にあたる旧宿場町です。
 町の北はずれの国道8号と交わるあたりの松並木、約2km続く袖塀に格子構えの家並みや看板が、旧街道の雰囲気をかもしだしています。鳥居本は、合羽(かっぱ)が特産で、本家合羽と書かれた古い木製看板は、道中合羽(どうちゅうかっぱ)を製造販売していたところです。どっしりした威厳のある昔ながらの商家のたたずまいを残す有川家は、万病に効能があるといわれる赤玉神教丸(あかだましんきょうがん)の製造販売を、江戸時代から始め今も営んでいます。また、国道8号沿いにある近江鉄道鳥居本駅は、明治の鉄道の情景を偲ばせます。鳥居本にはこの他にも見るべき所が多くあります。

10km
  • 15分

長谷川伸の戯曲『瞼の母』で一躍脚光を浴びた山里の宿場町です。付近には一向上人開山と伝わる蓮華寺や、脇本陣跡といったみどころがあります。

10km
  • 10分

梅花藻鑑賞へお越しいただく際は、
なるべく公共交通機関をご利用くださいますようお願いします。
 
街道とともに下る『居醒の清水』は太古、日本武尊が体毒を洗い流したと伝えられます。今も、霊水・名水として湧出し、人々の生活を潤しています。

5km
  • 12分

JR東海道本線柏原(かしわばら)駅のあたりを中心に、かつて柏原宿が広がっていました。東西13町(約1.5km)にもおよぶ中山道の中でも大規模な宿場町で、344軒の家があったと伝えられていますが、現在では、常夜灯(じょうやとう)や街道沿いの宿場町特有の2階建の軒の低い数軒の家が面影を伝えています。
 京から江戸へ向かう場合、柏原の宿から東へ近江(おうみ)の国と美濃(みの)の国の境にかけて長久寺(ちょうきゅうじ)、今須の宿をへて常磐(ときわ)御前の墓、不破関(ふわのせき)、関ヶ原と続いていました。また、柏原宿は伊吹もぐさの産地として有名で、「木曽路名所図会」にも紹介されています。昔は多くのもぐさを商う店が街道沿いに軒を並べていましたが、現在はいぶしがかった落ち着いた構えの店が一軒残るだけです。看板や店内の大きな福助人形をみても、もぐさを買い求める多くの旅人で繁盛していたことがうかがえます。

8km
  • 15分
10
北陸道米原IC