モデルコース

太閤ストーリー 豊臣秀吉出世街道

日程
1泊2日
エリア
湖北・湖東・東近江

太閤秀吉の足跡をたどる

1
北陸道長浜IC
5km
  • 8分

町の南端を流れる姉川の野村橋(のむらばし)付近一帯は、戦国時代に壮絶な戦いが繰り広げられた所です。 小谷(おだに)城主の浅井長政(あざいながまさ)(1545-73)は、織田信長の妹お市の方を夫人にし、織田家と同盟を結んでいましたが、かねて親交のあった越前の朝倉(あさくら)氏を、信長が攻めたことにより信長と長政との間に確執ができました。この合戦は、浅井・朝倉軍約1万8千人と織田・徳川軍約2万8千人が、姉川を挟んで軍を敷き、徳川方の攻撃により戦いが始まりました。 最初、浅井・朝倉軍が優勢で、織田方は、13段構えの陣を11段まで突破されるほどでしたが、徳川軍の力戦によって朝倉軍が後退したため、浅井軍は右翼から崩れはじめ、これに力を得た織田軍も総攻撃に転じ、浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走することになりました。この戦いによる戦死者は両軍で2500人とみられ、この3倍におよぶ負傷者が出、姉川は血で真っ赤に染まったといわれています。血原(ちはら)、血川橋(ちかわばし)という地名が、当時の惨状を伝えています。 この合戦の後も、長政は本願寺(ほんがんじ)などの反信長勢と協力して抵抗を続けましたが、姉川の戦...

6km
  • 10分

小谷城は、長浜市の小谷山(495.1m)にあり、浅井(あざい)家が3代にわたって居城としていました。築城は大永5年(1525年)ごろで、中世三大山城のひとつです。湖北の大名・浅井長政、戦国一の美女といわれた織田信長の妹、お市の方や、その間に生まれた3人の娘・浅井三姉妹(茶々、初、江)ゆかりの城です。城跡からは琵琶湖や湖北の地を一望することができます。
 織田信長との戦いで浅井家が滅んだ後、羽柴(豊臣)秀吉に与えられましたが、秀吉は今浜(いまはま)(現在の長浜)に城を築いたために、そのまま廃城となってしまいました。小谷山全山におよぶ城跡の遺構から、当時の面影を偲ぶとともに、お市の方と3人の娘たちの生涯に思いをはせることができます。
 自然の地形を利用して、東西の尾根づたいに各郭が配置され、本丸、大広間跡などから建物の礎石が出土しました。最頂部の大獄(おおずく)(495m)にも土塁が残っています。清水谷(きよみずだに)には、平時における浅井氏と家臣たちの館跡があります。昭和12年(1937)、国の史跡に指定されています。

12km
  • 20分

南北に奥琵琶湖と竹生島、東に伊吹山、北に余呉湖を一望できる賤ヶ岳は、琵琶湖八景の一つとして知られています。
1583年(天正11年)、羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」の戦場跡で、戦跡碑、戦没者の碑があります。
また、琵琶湖と余呉湖のふたつの湖の景観と史跡を巡る多彩なハイキングコースが整備されています。
麓の大音からリフトも運行しています。(冬季休業)

22km
  • 25分

戦国時代末期に豊臣秀吉が城主として過ごした長浜城は、江戸時代前期に廃城になり、遺構は彦根城や大通寺に移築されました。その跡には、僅かな石垣と井戸だけが残されていましたが、昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」を復元されました。内部は歴史博物館として公開されています。
 展示室は2階と3階に分かれており、期間ごとに特別展や企画展が開催されています。2階では、さまざまなテーマに沿って湖北・長浜ゆかりの資料が展示されています。3階では、「秀吉と長浜」をメインテーマに秀吉の他、浅井長政、石田三成といった長浜と関わりの深い人物達の足跡や人物像を紹介した常設展示を行っています。湖北を一望する5階の展望台では、ナレーションや効果音によって、戦国時代における長浜の重要性を実感することができます。

0.7km
  • 徒歩10分

安土桃山時代、秀吉の没後に長浜の町民がその遺徳を偲んで建立。事代主大神、豊臣秀吉、加藤清正、木村重成を祭神としています。
 大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川幕府は神社を取り壊すよう命じました。町民は、一時、祭神を町年寄の家へ移し、八幡宮の古堂を移築して、商売の神様である恵比須神を前立に、奥殿に秀吉像をひそかに祀り、長い江戸時代を過ごしました。
 明治31年(1898)の秀吉300回忌に社殿を造営して現在の社容を整えました。1月の十日戎、武者行列が繰り広げられる10月の「豊公まつり」の際には、商売繁盛や出世を願う人で賑わいます。

1km
  • 徒歩15分

湖上観光、レクリェーション、漁業の湖北の拠点。竹生島への定期観光船のほか、冬には雪見、春には花見のための遊覧船も出ます。

12km
  • 30分

沖合約6kmに浮かぶ周囲2kmあまりの小島で、宝厳寺と都久夫須麻神社が祀られています。宝厳寺の本尊は弁才天と千手観音。弁才天は安芸の宮島、相模の江島とともに日本三弁天に数えられています。また、中世以来西国三十三所観音霊場の三十番札所として多くの参詣客で賑わっています。
宝厳寺の唐門は秀吉の大坂城の唯一の遺構と伝わり、都久夫須麻神社の本殿とともに国宝に指定されています。
近年は琵琶湖第一のパワースポットとして注目を集めています。「深緑竹生島の沈影」として琵琶湖八景の一つ。

●琵琶湖八景「深緑 竹生島の沈影」

21km
  • 40分

延命長寿・縁結びの神として古くから全国的な信仰を集め、豊臣秀吉の厚い信仰もありました。祭神として天照大神(あまてらすのおおみかみ)の両親の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っている旧官弊大社です。「お多賀さん」の名で親しまれ、駅前の大鳥居から神社までの参道の両わきにみやげ店などが並びます。
 神社を清流が囲み、太閤橋(たいこうばし)と呼ばれる石の反り橋を渡って門をくぐると、玉砂利を敷いた境内の向こうによく茂った木立を背に堂々とした風格を持つ本殿が建ちます。厳かな雰囲気が漂う境内には、本殿右に能舞台、左に絵馬殿が立っています。また、東廻廊の横にある石は、61歳の重源(ちょうげん)が東大寺を再建するために延命を祈願し、無事願いが叶ったたことを記念したもので、延命石と呼ばれています。拝殿などは、格天井が美しいといわれています。社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたものです。
 また、神社から少し離れた杉坂山に杉坂峠の杉と呼ばれる杉があり、御神木となっています。
<重文>紙本金地著色調馬・厩図(六冊屏風)...

28km
  • 30分
  • ロープウェイ4分

市街地のすぐ北側、標高271.9mの八幡山山頂にあります。安土城が落城してから3年後、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が築いた城です。
最頂部に本丸をもうけ、その南東に二の丸、西に西の丸、北に北の丸、南西の尾根上一段低く出丸を配置する構造で、山頂から八の字形に広がる尾根上の小曲輪と、尾根に挟まれた南斜面中腹に秀次館跡と家臣団館跡群と思われる曲輪群が階段状に残っています。
現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)が京都から移築されています。また、秀次館跡からは金箔瓦が多数出土し、とくに秀次の馬印である沢瀉紋(おもだかもん)の飾り瓦が発見されるなど築城当時の豪華さが伺えます。

豊臣秀次(1568〜1595)について
豊臣秀吉の姉・ともの子。秀吉の養子となり関白職を継ぎましたが、後に秀頼が産まれ、後継者を巡る争いにより自害させられました。八幡公園には開町の祖・秀次の銅像が建てられています。
NPO秀次倶楽部(http://www.hidetugu.jp

12.5km
  • ロープウェイ4分
  • 18分

彦根港着

11
名神竜王IC